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特集記事アーカイヴ Issue 2003.5-6

朗読を求める詩型

Text: 石井辰彦 Tatsuhiko Ishii

短歌を朗読する。伝統的な様式で朗誦したり朗吟したりするのではなく、世界に通じる一般的なスタイルで短歌を朗読する。それは可能なことだろうか?

もちろん、可能なことである。伝統的定型詩である和歌の血脈に連なるとは言え、現代短歌は紛れもない現代の詩なのだから。現代の詩は、そこで用いられた言語の通用する範囲を超えて、世界に向けて発信されるべきだろう。その時、朗読は翻訳以上に有効な方法となるはずだ。これは、海外で自作を朗読した経験のある詩人なら、おそらく誰もが同意することなのではないだろうか。

短歌は朗読されるべきなのだ。いや、朗読されなければならない。もちろん、朗読がすべてだなどと言うつもりは毛頭ないが、求められても自作を朗読できないような歌人は、詩人としての怠慢を責められても仕方がないのである。

ところが朗読という行為は、短歌の世界ではつい数年前まで、ほとんど顧みられることがなかった。拙著『現代詩としての短歌』(書肆山田、1999年)に収めた論考「O Freunde, nicht diese Tone」は短歌の朗読を論じたものだが、そこには「短歌の朗読会がことさらに催されたという話を、寡聞にして私はほとんど知らないのだ」という記述がある。この論考が詩誌「るしおる」に発表された1997年6月の時点での、それが現実だったのだ。

しかし今や、短歌の朗読会はかなり頻繁に開かれるようになっている。手前味噌になってしまうが、1997年から98年にかけてニューヨークに滞在し、聴衆としてばかりではなく出演者としても数多くのポエトリー・リーディングを体験した私が、岡井隆の要請に応じて朝日カルチャーセンター・横浜を会場とする彼の朗読会に助言し助力するようになったのが、今日の隆盛の端緒だったと言えるだろう。以後、短歌の朗読会は急速に普及し、今日に至っているというわけだ。〈岡井隆の短歌朗読会〉は、この5月24日に開かれる会で14回を数えることになる。

手前味噌ついでに、私が関係するふたつの朗読会についても触れておきたい。ひとつめは、来る6月28日に新宿文化センター小ホールで開催される〈marathon READING 2003〉である。これは今年で3回目になるのだが、ニューヨーク滞在中に私も出演した、イーストヴィレジのセント・マークス教会で毎年元日に開かれている〈New Year's Day Marathon Reading〉に倣ったものだ。数十名の歌人(若干名の詩人や俳人も含む)が次々に登場し、自作を朗読して行くというイヴェントで、前の2回はともに大好評を博している。第1回〈marathon READING〉の成功を契機に結成されたゆるやかな組織がTanka Reading Laboratory(略称TRL。私が代表ということになっているが、実際の運営には田中槐をはじめとする若手歌人が力を尽している)なのだが、この団体が、小規模ながらも実験性のある会を目指し、田中槐のプロデュースによって昨年末から始めたのが、もうひとつの朗読会、ほぼ隔月に開催予定の〈朗読千夜一夜〉(会場は築地の兔小舎)である。これもまた幸いに、好意的に評価されているようだ。 もちろん、これら以外にも多くの短歌朗読会が開かれるようになっている。たった5、6年前には、この状況は思いも寄らないことだったのだ。

もちろん、今なお朗読を拒否する歌人は、少なくはない。そういう歌人からは、朗読に短歌は向いていない、という声が聞えてくる。しかし私は、短歌こそ朗読に向いた詩型だと考えているのだ。

詳しくは前述の拙著『現代詩としての短歌』に譲らざるを得ないが、一首の短歌は強弱五歩格trochaic pentameterに比定することが可能な構造を持つ一行詩だと言える、というのが私の理論である。短歌を構成する五つの句を音歩meterになぞらえ、等時性の法則に従っていると考えられる各句が、五音の句も七音の句もひとしなみにそれぞれ強弱格trocheeの二拍子を刻む、と想定するわけだ。したがって連作短歌(今日、ほとんどすべての短歌が連作として発表されていると言える)においては、それを構成する一首一首は強弱五歩格の詩の一行一行に相当すると考えられるだろう。そう考えれば連作短歌の朗読は、強弱五歩格の詩の朗読に似たものになるはずであり、西洋の詩の朗読に近い音楽性を確保できるはずでもあるのである。実際、自作の短歌を連作の全体に目を配りながら朗読してみると、一種詩的な音楽性が感ぜられることは紛れもない事実なのだ。

定型の土台が皆無とは言えないまでも極めて脆弱ないわゆる現代詩(日本語の)と較べ、短歌は朗読により向いていると言えるのではないだろうか。

1998年の初め、私はThe Cowboy Poetry Gatheringという詩の祭典に参加した。ネヴァダ州北部のエルコという小さい町(かつての鉄道駅の跡を囲む町の中心部には、西部劇映画の雰囲気がまだほのかに残っていた)で毎年開催されているこの祭典は、その名が示す通りカウボーイ詩人の大集会である。その中心となる催事は、ほとんど無数と言ってもよいほどたくさん開かれる朗読会だった。

かつてカウボーイたちは、焚火の周囲に集い、歌をうたったり法螺話を語ったり自作の詩を朗読したりしていたのだという。その中の詩の朗読の伝統が今日まで受け継がれ、カウボーイ・ポエトリーというジャンルを形成しているというわけである。貧弱な語学力しか持ち合わせていない私の耳にもそれは明らかだと感ぜられたが、彼らの詩は、現代の先端的な詩とはいささか異なり、かなり忠実に古典的な定型を守っているようだった。つまり彼らの朗読は、どれもがまず音楽的に心地よいものだったのである。

この祭典で知り合った詩人のひとりに、ハンク・リアル=バードという本物のカウボーイがいた。彼はクロウ族に属する本物のネイティヴ・アメリカン(この場合、インディアンと呼びたいところだが)でもあったのだが、その彼が韻律について語った次のような言葉が忘れられない。

−−大自然から得た詩的イマジネーションはとても重要なものだが、まだ言葉としては整えられていない。そのような言葉を、ある特定の韻律にあてはめ詩の一行一行を完成させてゆく愉しさは、野生の荒馬を調教してリズミカルに走らせるに至る愉しさに似ている。

そうハンク・リアル=バードは語ったのだ。会場で販売していた彼の詩集は、たった30ページしかない仮綴の小冊子だったが、彼の詩の朗読は、ニューヨークで聴いた高名な詩人たちのそれにも劣らぬ見事なものだったことを、付け加えておくべきだろうか。

短歌とカウボーイ・ポエトリーとを同列に論ずるつもりはもとよりないが、短歌が、たとえ現代短歌と今日呼ばれているにしても、かなりしっかりした定型を維持する詩型であることは間違いないし、その点ではカウボーイ・ポエトリーに似ていると言ってもよいはずだろう。韻律に意識的な態度で行なわれる連作短歌の朗読は、すぐれて音楽的な朗読たり得るのである。

短歌は、定型詩であるがゆえに、朗読されることを自ら求めている。そう私は断言しておきたい。


石井辰彦 Tatsuhiko Ishii
歌人。1952年横浜生れ。歌集『七竃』『バスハウス』『海の空虚』、評論集『現代詩としての短歌』などがある。1997年から98年にかけてNYに遊学し、ポエトリー・リーディングの洗礼を受けた。現在 Tanka Reading Laboratory (TRL)の代表。 http://sv.mcity.ne.jp/D/9844/


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